« *ご連絡用*留言页 | トップページ | 悩んでいるなら »

2014年3月 8日 (土)

定義と認識、そして感覚。

定義と認識、そして感覚。
中国結びといいながら
あきらかに西洋結び(マクラメ)や
日本結びの表現を混ぜて送り手側になる事や
何の疑いもなく受け入れてしまっている様子にずっと違和感があります

「中国結びでお雛様」「中国結びでクリスマスリース」

これ↑とさして変わらないような気がしました
なぜ気にしないのか?変な感じがしないのか?が私にはわからないので
聞くたび見るたび ものすごく不思議なのです

それらは「日本結び」「西洋結び(マクラメ)」として確立され
受け継がれ 紹介されている表現です
使っている「ひも」以外 殆ど同じデザインです
確認すればすぐに解る事なのです

なのになぜ「中国結び」として扱ってしまうのでしょうか?
 
以前数人に尋ねたところ

「私は楽しめればそれでいい」
「楽しむのが一番だ」と言い返され
論点を理解してもらえず 話になりませんでした
「楽しむ楽しめない」とは全く別の次元の話なのに

そうしたいならば
わざわざ「中国結び」という単語をつかわなくてもいいのにと
思うのです・・・

「好き」ってどういう事なんだろうか?と
思うのです・・・

他にも
「組みひも」は「いと」を「んで」 ひもを作る工芸
「結び芸」は 「ひも」を「んで」 飾りを作る工
全然別のものなのに
「中国結びは組みひも」だと言って通そうとする人や

「ひも」を「いと」だと言ってきかない人がたくさんいます
その中には
「台湾の結びの先生がいとだといったからひもではなくいとだ」
という人もいました

これにはあぜんとして何も返せませんでした 

その感覚に 本当にびっくりしたのです

これらは「専門じゃないから知らない」という事でもなく
子供の頃から日常で覚えていった知識だったり
日本語の辞書なら載っている事なのに

どうして今までの人生の中で「養った感覚からの違和感」を感じないのでしょうか?
どうして確認しないで鵜呑みに取り入れてしまうのでしょうか?

本当に不思議なのです
そして「なぜ?」と聞けば そのような傾向の人にはたいてい
私のほうが頭が固いやらこだわりすぎやらと言い返されます
私は単に質問しているだけで その根拠が知りたいだけなのに・・・

単純に知りたいのです

責めたり批判するためではないのです 

 
「どうしてあなたはそう認識するのか?」という理由が知りたいだけなのに

認識基準についての話が出来ないのです

 

私の認識では
コーンスープは味噌汁ではありません
「美味しければいい」で味噌汁にはなれません

なのに「なぜあなたは味噌汁にしたのか?」
その根拠が知りたいだけなのです 
とても不思議に思うから 理由を知りたいのです

頭が固いとかこだわりすぎるという事とは 全く別次元の話なのに
案外話が通じない人が多いので 不完全燃焼なのです

 
「そんなことどうでもいい」という人もいました
その人は「教える立場」にある人でした
「どうでもいい」と考えているものを扱っているのでしょうか? 

混同し広めてしまうことで
日本結びや西洋結びを真剣に扱っている方々は
中国結びに対してどんな印象をもつでしょうか?

充分想像の範囲だと思うのです・・・

実は複数の方から 実際に意見を聞いた事があります
決していいものではありませんでした

私はそこも大切なポイントだと思うので
混ぜたものを「中国結び」とする事に疑問を感じるのです

なのでこれらの話は技術力(うまい下手)とは別の意味で
相手の「中国結びに対する認識力を判断する材料」にもなります

自分では気がつかないうちに自分が置かれる「場」が決まってしまうことがある
付き合う人の傾向が決まってしまうことがある
なぜなのか?

この根底にある話は
あらゆる世界で共通する根本の一つでもあると思います

« *ご連絡用*留言页 | トップページ | 悩んでいるなら »

想う」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1450292/55286505

この記事へのトラックバック一覧です: 定義と認識、そして感覚。:

« *ご連絡用*留言页 | トップページ | 悩んでいるなら »